秩父リゾートグループの
都内から最も近い巡礼
願いを導く発願の寺
深山の趣あふれるお寺
水の恵みで心清める寺
子育て観音に心が和む寺
学びと芸を支える堂
山の伝説に彩られた高台の寺
大きな本堂のあるお寺
初め八番 終い八番末広がりで縁起のよい寺
女性の想いに寄り添うお寺
夫婦龍が見守る恋愛成就と夫婦円満のお寺
開運厄除けの寺
風格ある山門と美しい庭のお寺
慈しみの眼差しに導かれるお寺
祈りの中で心がほどける癒やしの寺
洋式建築の本堂のあるお寺
四国八十八カ所遍路の功徳もあるお寺
百観音が浮き彫りされている鐘楼のあるお寺
盛衰の歴史を生きぬいた寺
巨大な一枚岩の上に建つ寺
切り立った崖の上に建つお堂
災いを祓い 幸せを招く 守りの寺
童子仁王が迎える、安らぎのお堂
松風と祈りが響く秩父の高台の寺
116段を上って出会う静寂と祈りの寺
閻魔大王の御手判があるお寺
舞台造りの観音堂があるお寺
やすらぎを包む大観音の寺
道をゆく人も共に生きた命もすべてを見守るお堂
四季折々の花と枯山水に心潤うお寺
智慧と福徳を抱く楊貴妃観音の寺
10万8000体の摩崖仏と日本一の石造りの仁王像
秩父の苔寺
長寿と健康の寺
巡礼結願の寺
観音堂は1697年に建立され、当時は朱色に塗られており、巡礼者の目を引く華やかなお堂だったそうです。境内には、飢えや苦しみに悩む鬼を供養するための施食殿(せじきでん)もあります。毎年8月24日は、施餓鬼会が行われ、およそ500年前から大変有名な行事として現在まで引き継がれています。関東三大施餓鬼会の一つになっています。
龍の絵図
19世紀後半に行方不明になったが、約70年後に東京の美術商で発見され寺に戻りました。
秩父札所が33寺から34寺になった時に新たに加えられたお寺です。1860年に焼失する前は、本堂や仁王門、秩父札所を開創したといわれる十三権者の像もありました。現在の本堂は1904年に再建されたものだといわれています。納経所は光明寺(徒歩40分)。
迫力ある龍の彫刻
参道の紅白の梅と花桃が咲く季節は桃源郷な美しさです。
常泉寺の本堂は、1520年頃に建立されましたが1847年に全焼しました。その際、本尊だけが運び出されましたが、脇侍にはその時に負った火傷の跡が残っています。観音堂は秩父神社境内にあったお寺が当時の政府の政策(神仏分離令)で廃され、その建物を1870年に移築したものです。境内の井戸水は長命水といい、昔は長寿や健康を求める人が飲んでいたそうです。
この石を抱くと子どもに恵まれるという言い伝えがあります。
見事な龍の透かし彫り
観音堂は1709年の建立。1783年、約50km離れた山が大噴火し、降りそそいだ火山灰によって農作物が深刻な被害を受け大飢饉が起こりました。この地域でも多くの人々が命を落としました。当時の住職が、大飢饉で亡くなった人々の魂を弔うために石仏の安置を発願したところ、全国からおよそ3,000体もの石仏が集まったといわれています。その後、裏山の土砂流出などで数は減りましたが、現在でも約1,300体が残されています。
現在の観音堂は1804~1818年に再建されたものです。1720年に近所の長興寺より移築された山門の裏には風神雷神が安置されており、風変りな造りになっています。仏母とも言われる准胝観世音菩薩を本尊としているのは秩父札所で語歌堂だけです。納経所は長興寺(徒歩3分)。
秩父の木工所の素人作りです。
観音堂は江戸で修業した地元出身の棟梁による作です。
本尊の聖観音は武甲山頂の蔵王権現社にありましたが、「荻の堂」に移されました。「荻の堂」が火災で焼失し再建の見込みが立たず、1760年に管理元の卜雲寺に移された。卜雲寺本堂は、1877年に火災で焼失したが、1908年頃に再建されました。その後、大改修され現在に至ります。寺宝「山姥の歯」は、高僧に救われた山姥が、神仏に背かぬ誓いとして3本の歯を抜いて献じたものの一本だといわれています。
本堂は「牛伏堂」とも呼ばれ、堂前にはその由来の石像があります。秩父札所で最も大きな本堂で、設計や彫刻は平賀源内(1728–1780、発明家・科学者)の原図によるものです。18世紀に再建され、その後修復をされ現在に至ります。
「不許葷酒入山門」と書かれており、「匂いの強い食べ物やお酒を持って寺の門に入ることを許さない」という意味です。
武甲山に一番近い札所です。1460年創建。観音像は13世紀中頃、武甲山の麓の小さなお堂に安置されていました。戦乱で誰も参ることができず荒廃したため、現在の寺の敷地にお堂を建て、そこに観音像を移しました。往時は有力者の庇護のもと立派な建物群を有しましたが、1801年と1830年の二度の火災で焼失。1845年に本堂のみ再建、改修を経て現在に至ります。
十一面観音菩薩の座像としては、百観音霊場で唯一です。
1191年の開創。明智禅師が堂宇を建立したことから「明智堂」と呼ばれるようになりました。観音堂は1883年に落雷で焼失する前は5番札所と同形式のお堂がありました。焼失後は仮堂でしたが1990年に再建されました。
1704年建立。女性の願いを納めた塚。地蔵尊と石碑が安置されています。
1490年の開創。本尊は秩父地域でも珍しい坐禅をしている姿で、製作時期は14世紀後半と推定されています。観音堂の正面上部には夫婦龍の彫刻があり、手を合わせると恋愛の成功や、夫婦の仲が良くなるといわれています。また2015年公開のアニメ映画「心が叫びたがってるんだ。」の聖地(舞台)になっており、今でも多くのファンが訪れます。
1540年頃に開創されました。昔は観音堂・仁王門・庫裏を備えていましたが、1878年明治11年の秩父大火で焼失しました。現在の観音堂は1880年に再建されたものです。本尊は十一面観音菩薩で、病気平癒・延命長寿の守護仏として信仰されています。現在は曹洞宗ですが、焼失までは天台宗に属してました。その名残として、天台宗中興の祖元三大師を祀ります。
桃・ツツジ・フジ・アジサイなど四季折々の花が咲く「花の寺」として知られます。1906年に本堂が焼失、現在の本堂は1974年に再建されたものです。山門は1741年の建造で山門内には冥界で亡くなった者を裁く閻魔大王などの像が並んでいます。
観音様が大きな牛の背に乗った珍しいスタイルの仏像。この牛は、実在した怪力の牛で、昔、この地域で運搬作業に活躍していたと伝えられています。
90枚の絵が描かれています。
慈眼寺は1486年の開創。寺号は観音経の「慈眼視衆生」“慈しみの眼差しであらゆる人々を見守る”教えに由来します。1880年火災により本堂を焼失しましたが約20年の歳月をかけ、1901年に四萬部寺の様式を手本に再建されました。経蔵には1755年に奉納された仏典1630巻を納める輪蔵があり、一周回すことで読誦したのと同じ功徳が得られると伝えられています。毎年1月と7月には薬師様のお祭りも行われ、温かな祈りに満ちています。
秩父札所の開創者と伝えられている十三権者の木像が安置されています。
1039年に建てられた観音堂は、1709年に再建され現在に至ります。昔は近くにある秩父今宮神社が管理する別当でした。1868年、政府による神仏分離令によって、現在のように今宮坊と今宮神社とに別れました。観音堂前には「輪廻塔」が立ち、これを回すと生者には至上の幸福が、亡者には地獄から天上への転生が約束されると伝わります。
樹齢500年
近所にある秩父神社の境内にあった「母巣山蔵福寺」が、1868年に政府による神仏分離令で廃寺となりました。1878年の火事によりこの地に移転した「五葉山少林寺」がその法灯を継ぎました。それが寺名「母巣山少林寺」の由来です。火事で焼失した教訓を生かし、本堂は漆塗り、土蔵造りの耐火構造の建物になっています。
梟は夜目が利くことから「見通しが良い」「世の中に明るい」とされます。また、梟(ふくろう)には、日本語で「不苦労(苦労しない)」「福来郎(福が来る)」「福路(幸福な人生)」など、様々な縁起のよい当て字があります。
本堂は1710年の建立といわれています。本堂右手には1782~88年の飢饉の後難加護を祈願して建立された回廊堂(1976年に改修)があり、四国八十八ヶ所霊場の本尊模刻が並んでいます。札堂は秩父札所の中で唯一現存する独立した札堂であり、柱に残る釘や釘跡は巡礼者が木札(納札)を打ち付けた名残です。
釈迦如来の涅槃像を囲み多くの動物などを刻んだ浮彫があります。
大きな酒樽を利用した茅葺の大黒堂の内には、商売繁盛や立身出世を願って無数の名刺が納められています。
秩父札所が今の番付になる前は、一番札所で発願の寺でした。1963年に再建された鐘楼にある梵鐘は1758年に再鋳されたもので、秩父札所のほか、西国と坂東の観音霊場、合わせて百観音の本尊が浮き彫りにされ、それぞれの御詠歌刻まれている貴重なものです。
内陣の裏の回廊には、本尊の観音様と結ばれた紐が出ており、この紐を握ることで観音様と深いご縁を結ぶことができます。
花鳥画が描かれている。
昔は修験寺で多くの建物がありましたが、1800 年頃の火災により焼失。その後、観音堂のみ再建されましたが、1830~1844年にこれも焼失。現在の観音堂は1858年頃に再建されました。本尊は両手に蓮華を持つ珍しい像です。
本尊の手と繋がった紐があり、それに触れることで観音様との深いご縁を結ぶことができます。
本堂は、1950年以降、茅葺屋根が傷み雨漏りしていました。そのため、本尊と諸仏を他の寺に預けていました。地元の住民が中心となり、東京まで托鉢に出て浄財を集め、そのおかげで1973年に銅板屋根に修復することができました。その折に建築部材から1705年の墨書が発見されたことから、古い時代に建てられた建造物であったことが分かりました。本尊のほかに閻魔王像や地獄の情景を表す15体の像も安置されています。
仏教で死んだ人が三途の川を渡る際、着ているものを脱がせる役をする脱衣婆を安置している。
岩之上堂は地元の旧家・内田家が個人で所有するお堂です。11世紀末に建立されたお寺が1569年に焼失。本尊は仮堂に安置されていましたが、この地を治めた内田氏が私財を投げ打って1678年から25年を要して観音堂を建立しました。以来、内田家が300年以上にわたりお堂と本尊を守り続けています。1796年に内陣、1830年に彫刻が補修されています。
この地は元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場となったといわれています。別名「矢之堂」。現在の本堂は小規模ですが、昔は大きな建物であったと伝わります。1923年、近隣小学校の火災により類焼。翌年、隣町の廃寺を移築、再建したのが現在の観音堂です。火災の折に奇跡的に焼失をまぬがれた本尊は、火難に対して霊験あるところから「火伏せ観音」とも呼ばれています。
寺伝では、915年に天然痘が流行した際、岩間から湧く清水を観音に祀ってから患部につけたところ、たちまち快癒。子どもの病を救う観音として広く知られるようになったそうです。壮麗な観音堂は1701年に建立された。以前は違う場所にありましたが、1901年にこの地に移築されました。現在の場所は昔、出城(砦)があった場所で、今でも本堂裏や近くの畑に堀や堤の跡を見ることができます。
素人が子どもを意識して作ったもので、稚拙ではあるが愛嬌があります。
春は桜とツツジ、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々に美しい庭景が楽しめます。観音堂は19世紀ごろの建築で正面に松竹梅の彫刻がある。近年は音楽に関する願いを叶えてくれる寺として、新人歌手がデビューする際のみならず、スター歌手もヒットが出るようにと祈願に訪れています。峠には秩父札所を創建した十三権者が祀られています。
乳頭文108個と六体の観音像が鋳出され、冴えた大音響で鳴り響きます。
19世紀半ばまでは修験寺でした。江戸中期の建立と伝わる堂は随所に唐様の意匠が見られ、当時の匠の技を伝えます。観音堂の「大悲閣」の額は、幸せを与える観音様の御殿の意味。境内には、世界の平和と幸せを願う平和観音と六地蔵が佇んでいます。4月18日の縁日には、地元の人が輪になって長さ10メートルの大数珠をまわす行事があります。
八角形の柱があります。
仁王門を堂内に取り入れた特集な造りになっています。
秩父札所を開創したとされる十三権者の1人である性空上人が冥府に招かれて閻魔大王から石造りの「手判(手形石)」(来世への通行手形)を授かり、この寺に納めたという言い伝えから「御手判寺」ともいわれています。観音堂は1721年の建立。
奪衣婆(死者の衣を奪う老婆の姿をした冥界の番人)の像が安置されています。
奥の院の「岩井堂」はは18世紀に京都の清水寺を模して造られたといわれています。かつては、仁王門や札堂があり山守の宿舎もあったそうです。現在、本尊は円融寺に安置されています。円融寺の本堂は18世紀に建立。
約300段の石段を登った先にある。背後に岩壁、谷に向かって間口を広げた舞台造りのお堂です。
石仏や仏塔が納められています。
古くは山の上に観音堂があり「月影堂」と呼ばれていました。1919年に汽車の煤煙による火災で焼失しましたが、火難を逃れた本尊は、1996年に今の場所に観音堂が再建されるまで本堂に仮安置されていました。鐘楼は1971年に第51代横綱一行による追善大相撲を記念して1971年に寄進されたものです。
飲むと33日寿命が延びるといわれている湧水です。
1935年に開眼。高さ15m。観音堂近くの遥拝所という石があり、ここに立つと山上の護国観音のお顔を拝することができます。
観音堂は1707年の建立です。秩父札所の中で本尊に馬頭観音を祀るのは橋立堂のみです。馬が唯一の交通手段であった頃、馬頭観音は交通の守り本尊であったことから、縁日になると馬を引いた参拝者で賑わったといいいます。冬季期間(12月〜2月末)は閉鎖となりますので、札所27番において札所28番の御朱印も合わせていただけます。
縦穴型の鍾乳洞。かつて巡礼者が「胎内くぐり」として聖域に入る修行の場でした。
栗毛と白馬が祀られています。
1234年に秩父札所を開創した十三権者の一人が石札を奉納したことから「石札堂」とも呼ばれ、石札には「石札定置巡礼」と刻まれ、本尊前に寺宝として祀られています。天井は一見すると、千社札(昔、寺社に参拝した証として参拝者が貼った札)で覆われているように見えますが、実は彫刻に黒漆を施した納札板。参道入口左の石碑裏には樹齢130年の枝垂桜が立ち、花が咲かなくなったが再び咲いたことから「よみがえりの一本桜」と呼ばれています。
水を使わずに山や川の風景を表す枯山水は禅の心を映す庭。
本尊の如意輪観音像は「楊貴妃観音」とも称されています。唐の玄宗皇帝が愛妃・楊貴妃の菩提を弔うために自ら彫刻した観音様といわれ、1319年に禅僧が唐より奉持したと伝えられています。観音堂は1615年の建立です。
境内は四季折々様々な花木が植えられ美しく「浄土庭園」ともいわれています。
1872年の修験道禁止令までは、修験道の道場でした。境内の滝で水垢離し、このあたりの山で奥駆けをし、本尊も修験の行者が守っていました。本堂は、かつてはさざえ堂(木造3階建て、堂内に階段が巡っていた)と呼ばれるお堂がありましたが、1893年に焼失。現在のお堂は1972年に再建されました。
境内には「爪彫り千体仏」といわれる摩崖仏があり、また、奥の院へ向かう途中の岩窟にも石仏があり、全山で十万八千体の石仏があるといわれている。
舞台造になっている観音堂は1707年の建立。法性寺の聖観音は手に櫂を持ち船を漕いでいる姿であるため「御船観音」と呼ばれています。観音堂の裏手は大きな「タフォニ」という岩窟になっていて、中に蜂の巣状の多数の穴(ハニカム)が見られます。これは岩石の中の塩類が表面に染み出し、結晶化して岩石の表面を崩したものです。
秩父札所唯一の鐘楼門(山門と鐘楼が一体になっている造り)で1710年建立。
全長200mの巨岩「お船岩」に観音像(お船観音)と大日如来像が安置されている。(往復1時間)
菊水寺は創建当時は別の場所にあったが1569年に焼失。難を逃れた本尊はこの地の長福寺へ預けられたが、次第に長福寺は菊水寺と呼ばれるようになりました。土間造りの現堂は、1820年に再建されました。
「子孫繁昌手引草」と「孝行和讃」が掲げられています。前者は子返し(間引き)を戒めたもので、貧しさゆえに我が子を殺す悲惨な風習が絵入りで書かれています。後者は中国の二十四孝の一つ、唐夫人が姑の老婆に乳を与える絵で親孝行の大切さが説かれています。
秩父札所の結願寺であると同時に、西国札所(近畿地方にある33観音霊場)、坂東札所(関東地方にある33観音霊場)、秩父札所(34観音霊場)の結願寺でもあります。1532年に開基、後に開山して復興されたお寺です。観音堂は1828年に再建、20世紀に入り改修されています。観音堂奥の崖下に清水が湧きだしていて(現在は立入禁止)、巡礼者はここで身を清めたことから、「水潜寺」という寺名になったといわれています。
百観音霊場の砂を集めた砂踏み場。ここに立って合掌すると百観音の功徳が得られるといわれています。